ジャメヴ(未視感)
こんばんは。
明日から12月ですね。
楽しんでいきましょう。
さて、今回の記事は前回の記事を軽く調べたときに出てきた『デジャブ(既視感)』の対義語の『ジャメヴ(未視感)』についてです。
デジャブについては聞いたことある人が大半でしょうがこのジャメヴについては初めて聞く人も多いのではないでしょうか。
私も初めて聞いた言葉でした。
意味は、
『見慣れたはずのものが未知のものに感じられること』
らしいです。
Wikipediaより。
デジャブは結構な人が経験あるみたいですがこのジャメヴは聞いたことがありません。
いや、あるとしても名前がわからないから特に気にしてもなかったとか。
私の場合ですが、思い返してみればジャメヴがあったような気がします。
たまにですが遊んでるときや歩いてるときに急に
『あれ、私は何故ここにいるのかな?』
とか思ったりします。
頭がふわふわとしてまわりの声や動きが果てしなく遠くの出来事に思えてくるのです。
例えればテレビの画面の中にみんなが行ってしまった感覚ですね。
二十秒ほどで元の世界に戻ってくるのですが不思議な感覚ですね。
これが果たしてジャメヴなのかどうかもわかりませんがジャメヴとしたらかなりの貴重な体験なのかなと。
これは夢とは全く関係がなさそうなのですがこの現象はなんなのでしょうか。
頭がスーッとなる感じですね。
現実から離れていきます。
少し調べると病気の可能性もあるとも書いてましたね。
そんなことより私は人にない特殊能力としてプラスに捉えているので気にしていませんが。
でもこのスーッとした感じでそのままあの世に行くんかなと。
魂が抜ける感覚ですね。
魂が抜けたことはないですが。
最近はあまりジャメヴが訪れませんがもう一度あの感覚を味わいたいです。
デジャブ(既視感)
こんばんは。
そろそろ11月も終わりですね。
今年も残すはあと一ヶ月だけ。
最後まで駆け抜けていきましょう。
さて、今回は『デジャブ』についてです。
日本語に直すと『既視感』と言うみたいですがほとんどもうデジャブで通じるみたいですね。
この『デジャブ』、私は幼い頃からありまして自分だけにある特別な能力かと勘違いしておりました。
成長していくにつれ、回りの友達もみなそのような経験があると気づきました。
デジャブと言うものもなかなか謎なものですよね。
急に発動しますよね。
そして最初の方こそ『あ、この景色見たことある』とだけ思ってましたが最近ではその続きまで薄々とわかるようになってきました。
これも脳の成長でしょうか?
そのうち一秒先の未来を操ることができるのでしょうか?
と言ってもどう転んでも一度みた景色にしかならないんですよね。
一度操ってみたいものです。
そろそろデジャブとは?について書いていきたいと思います。
と言ってもこれも全くわかりませんが。
どこかで見た景色と思うのですがどこで見たのでしょうか?
前世?
未来予知?
前世だとしても環境が全く合わないですもんね。
人も恐らく全然違うでしょうし。
ここでやっと前回の『夢』との繋がりが出てきました。
ずばりデジャブとは夢で見た景色ではないのかなと。
夢は忘れるようにできていると書いたように忘れた夢の中に同じ状況を見たことがあるのではないでしょうか。
忘れている時点で余地夢とは言えませんが微力ながら私たちには未来を見る力があるのでしょう。
はっきりと何月何日にこのようなことが起きると予言される人はたまたまその能力が強いだけで私たちにも同じ能力が眠っているはずです。
と、なかなか有り得そうなことを書いてしまいました。
夢ならばかなり現実味がありそうですね。
ただそもそも夢が謎なのに夢で片付けるのは何か不自然ですがそこはまた夢を想像していきましょう。
ただの想像でも矛盾などを無くせば案外現実になるかもしれませんね。
今はまだ『あ、デジャブだ』としか言えませんがいずれこのデジャブを何か人生に役立つ能力として活用したいですね。
それこそ災害などの未来予知などしてね。
夢
こんにちは。
大阪での万博開催が決まりましたね。
世界を巻き込むイベントが二つも来ますね。
これで日本がより元気になってくれればいいですよね。
さて、今回のタイトルは『夢』についてです。
(ここでの夢は寝てる間に見る夢です。)
みなさんがよく見るこの『夢』、恐らく人間と言う生き物について一番謎な部分ではないでしょうか。
私はそう思います。
恐らくほとんど解明されていませんよね。
夢は基本忘れるように出来ているとも聞いたことがあります。
現に、覚えている夢など数えれるほどしかありません。
設定、人物、そのときの脳の動きなどどうなっているのでしょうか?
設定は本当にバラバラですよね。
意味不明な夢もたくさんあります。
ただやはり精神状態が夢に影響することはあると思います。
『明日嫌だな』とか『もっとこうすればよかったかな』など眠りにつく前に考えていたらそれがそのまま夢に出てきたこともあります。
登場人物もバラバラです。
今までの友達がたくさん出てきたり、知らない人が出てきたりと。
この登場人物についてですが、夢に出てくる人は覚えてようが覚えてなかろうが自分の目に入り脳が記憶した人が出てくるらしいです。
つまり、知らない人が出てきたとしてもその人はどこかの交差点、駅、お店などですれ違った人、はたまたテレビなどのメディアで見た人と言う可能性が高いらしいです。
何故その人が出てくるのかは謎ですが。
終わる時も計算されたように終わりますよね。
例えば怖いときの夢で知らない人が私を殺そうとしてくる夢を見ました。
逃げ切れずに怯えていて犯人が近づいてナイフを振り上げたところで必ず起きたりします。
自分で起きるとまだ納得出来ますが人に起こされるときもこの終わり方なのです。
いい夢の時も最高の場面が訪れる前に起きてしまいますよね。
起きる時間ではなく起こされる時間も考えて夢のストーリーは進行しているのでしょうか?
だとすればどこの機能が?
どうやって?
と疑問がひっきりなしに出てきます。
夢を自分で考えて行動できる明晰夢と言うものもありますね。
知人がよくこれを見るそうです。
私はまだ一回しかありません。
どのような夢だったか忘れましたが『あれ、これは今夢の中か』と一瞬思った気がします。
この明晰夢、調べてみると見るための方法とかあるみたいですね。
本当かどうかはわかりませんが。
何か脳に負担がかかりそうで怖いですが興味がある人は是非やってみてはいかがでしょうか。
あの長いようで一瞬な夢を自分で操るだけでもかなり楽しそうですね。
不思議な夢の後はみなさん夢占いなどしたりしませんか?
私はあまりにも不思議だとしたりしますがそれも何を基準にやっているのかわかりませんがなかなかおもしろいです。
これからいいことが起こるとか不吉なことがまっているとか夢で判断してくれます。
私の場合、だいたいの夢は『これから人生はより楽しくなるでしょう』と書かれていて一人でにやけてしまいます。
夢は何かのメッセージなのかも?
私の祖父が亡くなるとき、私の母はその日の夢で祖父を見たと言うのです。
それで『あぁ、そろそろお別れなんだね』と思ったそうです。
この前も私の実体験ですが、夢で友達が亡くなったと言う情報を知りました。
朝起きて嫌な夢だなと思い携帯を触っていると滅多に更新しないその友達がなんと一番にいて、『これは何かのお告げかな』と思い、すぐその友達に連絡し会ってきたと言うことがありました。
結局それが何のお告げかはわかりませんでしたがまだこれから何かあったりするのかもしれませんね。
亡くなる前の三途の川が見えると言うのも夢なのでしょうか?
これだけを考えるとかなりメッセージ性が強いですよね。
何かの余地夢なのか生き霊みたいに別の人のことを思っていたらその人の夢に出たとか。
夢の研究も果てしない道のりですね。
いつか解明されたとしたらどのような説明になるのでしょうか。
こんなことを考えながら今日も夢の世界へ落ちていきます。
次も少し夢に関係のあるものを書こうと思います。
ペットの幸せ
こんばんは。
今日も月が綺麗です。
ついつい見とれてしまいます。
今回は『ペットの幸せ』についてです。
最近は動物愛護団体なども活発になりペットは責任を持って飼いましょうとみなさん言い合ってますよね。
それは確かに大事なことです。
大切に育てられた犬や猫、はたまたその他の動物もいきなり捨てられると生きていけないのではないかと。
または保護されて殺処分の憂き目に合うと。
このような心配をされているのですよね。
その気持ちはすごくわかります。
ただ、犬や猫からは離れますが、あまりなついてこない生き物に対してはどうでしょうか。
主に私が思うのは亀についてです。
私が亀を飼っているからです。
狭い水槽に入れられ、餌は与えられるものの自由はなし。
そして、近くの川でのんびり泳いでいる野生の亀を見るたびに思うのです。
『ペットの亀の本当の幸せはなんだろかな』と。
本当はもっと広い川を泳ぎ、餌は少なくともお友達を作り楽しい一生を過ごせるのかなと。
私たちも他の生物にペットにされ、ただ餌を与えられ狭い空間に閉じ込められる。
このようなことを考えると嫌ですよね。
こんなにも世界は壮大なのに。
ペットを捨てる人は大半が大きくなり飼いきれなくなるなどの理由ですがもしかすると本当にそのペットのことを考えて野生に戻した人もいるかもしれませんね。
ペットにとってどちらが正解かはわかりませんがふとそんなことを思った日でした。
月明かり
こんばんは。
短いですがあまりにも月が綺麗なので書きます。
『月明かり』についてです。
この月明かり、今では夜でも電気があり一つの夜の楽しみ程度になっていると個人的に思っていますが相当明るいですよね。
電気もなかった昔なんて月明かりがかなり大事だったんではないでしょうか。
『今日は月がないから暗い』とか。
よく考えてみればかなりの光を与えてくれてますよね。
夜でもこれだけ照らしてくれたら結構見えるものです。
もっと近くに月が接近すれば太陽並みの明るさを与えてくれていたかもしれませんね。
そしてまた光っている部分と光っていない部分を必死に考えてました。
やはり大陸と海と言うのが一番しっくりきますね。
そもそも大陸と海と言う概念があるのでしょうか。
もう少しこの月明かりを浴びて色々と考えてから眠ろうと思います。
そう言えば万博が日本で開催されることになりましたね。
また月の石を展示してほしいですね。
光る海の生物
こんばんは。
今日は藤原道長さんのあの有名な詩から1000年目の満月みたいですね。
確かに昨日も素晴らしい月でしたよね。
この歴史的な一日を月を眺めて締めくくりましょう。
さて、今回の記事は『光る海の生物』についてです。
みなさんもご存知だとは思いますが深海に近いところに生き物が自分で光を出す世界が広がってるみたいですね。
初めてテレビで見たときはビックリしましたね。
『何故クラゲがこのようなイルミネーションみたいに光るのか』と。
(クラゲの他にも魚、イカなどですね。)
何故光るのかよりもどのように光るのかの方が疑問でしたけどね。
このかすかに光が届くところは『トワイライトゾーン』と言うみたいですね。
ここの生物が何故光を発するのかは長らく謎でしたが最近解明されてきたみたいですね。
とは言え、恐らく色々な説もあり、また本当の光の目的には誰も辿り着いていないかもしれませんね。
とりあえず私が前に聞いた説は、かすかに太陽の光が届くところでは生き物の大きさがはっきりと映ります。
これによって大きさを判断され捕食されます。
ですが、自分自身の体を発光させればかすかな太陽の光と重なりすごく大きく見えるらしいのです。
上から見たら何も変わらないのですが下から見たらかなりの変化らしいのです。
なので下部分しか光らないみたいですね。
この説も面白いですよね。
しかしやはり、何故光を発するのかよりもどのように光を発するのかの方が興味深いですね。
正直これに関しては全く想像ができません。
意味がわかりません。
体が光る?
生物は進化していきます。
弱ければ逃げる方法や大きく見せる方法。
それを考えた末にたどり着いたのが体を発光させること。
ここから体を発光させる第一歩すら想像ができません。
どのように進化させたのでしょうか。
考えれば考えるほど頭が痛くなってきましたね。
細胞をぶつけ合って摩擦的なもので光を発するのでしょうか。
それでもカラフルに光るクラゲなどはもっと高度な光ですよね。
もうわかりません。
今後も考えていきます。
もしかしたら、皮膚で隠されているだけで人間にも光ってる部分があるかもしれませんね。
では、みなさん月をお楽しみください。
初の異文化交流の想像
こんばんは。
月がとても綺麗ですね。
月明かりだけでこんなにも夜が明るく思えるとは。
さて、今回は『初の異文化交流の想像』と言うタイトルです。
どんなタイトルにしようか迷ったのですがこのようなわかりにくいタイトルになってしまいました。
簡単に言えば、一番最初の、何もわかっていない状態でいきなり他言語を話す人が来たら?
と言うことです。
前の記事に書きましたが、そこの島に住んでいる人以外はその民族の言葉を話せない。
逆もしかりでその民族は誰も他言語を話せない。
このような状況の時、どんな風にコミュニケーションを取っていたのでしょうか?
この想像になります。
鎖国を終わらせるときには英語ができる日本人が。
戦国時代に来た南蛮の人はカタコトですが日本語を話していたと。
もっと昔の時代にも今で言う中国と書簡を交換し合ったりといったいいつからお互いの言葉を理解しあっているのでしょうか。
日本語の手が英語でhandと言うのもわからず、ましてやアルファベットなども当然知らずにどのように言語交流の第一歩を踏み出したのでしょうか?
お互い指差しながらジェスチャーで教え合いと言うのが一番しっくりきますね。
現実的です。
が、もしかしたら最初に間違った認識でお互い学んでたかもしれないと言う考えも出てきました。
handと言う単語が本当に手なのか。
大袈裟に言うとこのようになります。
学校で習うフレーズを本場では使わないみたいな感じですね。
今の時代、外国へ行っても単語とジェスチャーだけで何とかなる場合も多いですよね。
それがその単語すらもわからないと何もわかりません。
その状態で言葉の翻訳をし合って果たしてあっているのかどうか。
ここが疑問だったのですね。
恐らく、最初はやはり間違いばかりだったのでしょう。
handは手なのか指なのか腕なのか。
このような議論を全く通じない言葉通しでやるのは想像を絶する程難しく、しんどかったものだと思います。
そこから何人もの努力のおかげで改善に改善を重ね今に至るのでしょうか。
誰も通じなければ今も通じない世の中だとしてもそこまで不思議ではないはずだと思います。
どのようにそれぞれの言葉の交流をしてきたのか常に疑問に思っていたので書きました。
こんな夜中に書いたので文章滅茶苦茶だとは思いますがお気になさらず。